eaay.jpg菱垣船(大江戸東京博物館)

江戸は海洋都市でもありました。江戸の街は、家康の入城当初から海運のための運河が整備されました。

江戸の海運は、当初千石積みの菱垣船を使って、大阪から油・酒・醤油などを運んだ菱垣廻船が主力でした。寛文(1690年)期頃には、灘の酒樽を積んだ樽廻船が台頭してきます。これらの航路は、伊勢志摩から遠州灘を航海して、伊豆半島の妻良・下田、三浦半島の三崎・浦賀を主な寄港地として、江戸湾に入ります。江戸に着くと、運河の一つであった鉄砲洲(築地当たり)で、川舟の高瀬船に積み替えて、日本橋やその周辺の倉に荷を運びます。

明暦の大火(1657年)で江戸の再建が課題となった幕府は、政商河村端堅に命じて、東北地方や日本海沿岸の直轄領から米を運搬するために、東廻り航路を整備させます。東廻り航路の主な寄港地は、那珂湊、銚子、房総半島の小湊で、そこから房総半島の沿岸を廻らずに、伊豆半島の下田に渡り、後は上方航路と同じく三崎・浦賀を経由して、江戸に入ります。

江戸時代初めの東廻り航路は、銚子で川舟に積み替えて、利根川、江戸川を経由して、江戸に荷を運びました。伊勢生まれの河村瑞賢は、航海技術に長けた伊勢の船乗りを使って、房総半島から伊豆半島を経由するルートを開拓しました。

これらの遠距離海運には千石積程度の菱垣船が使われましたが、百石積の五十葉船(いさば)を使った近距離航路は海産物を扱って、江戸市場とともに発展しました。

近世に江戸とその周辺地域によって構成された市場圏を、江戸地廻り経済、海産物の地廻りを五十葉(いさば)といいます。

五十葉として著名であった地域は以下の通りであり、これらの地域は江戸市場とともに発展して、一つの地域経済圏(「環東京湾経済圏」)を形成していたものと考えられます。

1)あさり・はまぐり(砂浜地区):羽田・葛西沖・市原・横浜・生麦

2)干物:八丈島・大島・三崎・伊東・湯河原

3)かつお節(外洋地区):伊豆七島・御宿・日立・伊東・三崎

4)海藻(藻場、岩礁地区):三崎・新島・神津島・生麦・鶴見・三浦

5)塩(砂浜地区):行徳・市川・大島・日立・二宮・木更津・金沢(神奈川)

6)のり:伊豆七島・大井・大森・品川・葛西

7)さざえ・あわび(岩礁地区):三崎・大島・横須賀・浦賀

これら地域は、江戸(東京)湾と相模湾を囲む地域に、鹿島灘沿岸を付加した所です。ざっくりと表現すれば、江戸を要として、東は那珂湊、西は伊豆半島の石廊崎、南は伊豆七島となります。これらの地域は、伊豆大島のレポートで考察したように、植生的にも共通した基盤を持っています。

さて、幕末から明治にかけて江戸湾を航行した西洋人の多くが、小型帆船(ジャンク)の往来が激しいことに驚いていますが、この多くは五十葉船であったと考えられます。幕末に江戸を訪れたシーボルトは、江戸の台所を支えているのは海上輸送であると洞察しています。