古代武蔵野の開発と景観

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azeturf-3.jpg 武蔵野を再現するアゼターフ

「私の祖先は代々、杖刀人の首(おさ)を務めてきました。私は雄略天皇に使え、天下を治める補佐をしてきました。そこで辛亥年(471年)7月に、これまでの輝かしい功績を剣に刻んで記念とします」 (国宝:埼玉(さきたま)稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘文)

この銘文は大和朝廷と後に武蔵国に含まれる埼玉古墳群の盟主との関係を示すものだが、この銘文が示す5世紀後半以降は、関東から東北南部の広域にかけて、厨房施設としてのカマドを備えた住居で構成される100棟規模の大規模集落が出現する。

7世紀後半には、武蔵国が設置され、現在の埼玉県、東京都、神奈川東部を含む。7世紀後半から8世紀中葉にかけては、百済・高麗・新羅からの渡来人の移住が進められ、霊亀二年(716)に高麗郡、天宝宝字二年(758)に新羅郡が設置されている。

また律令国家の東北経営に伴って、武蔵国から陸奥国への移住も進められ、実際に宮城県北部では武蔵国に特有の住居形態や土器をもった屯田兵的村も発見されている。

このように5世紀後半以降は、武蔵国(その前身の武蔵国造)は、大和朝廷や律令国家とのかかわりにおいて、移住や土地開発が活発に行われた。特に8世紀末から9世紀初頭において、集落の拡大や分村化が認められ、土地利用の高度化が認められる。これらの大規模な土地開発の主要因としては、桓武朝期の東北経営の本格化に伴う坂東諸国に課せられた兵士の動員や物資調達が考えられる。その過程で、武蔵野の樹木林はかなりの割合で、伐採、利用され、植生は大きく変化したものと推定される。

武蔵野の情景を、8世紀後半に成立したとされる万葉集の東歌から見てみよう。

「埼玉の 津に居る舟の 風をいたみ 網は絶ゆとも 言な絶えそね」                    埼玉の船着場に停まっている舟の(もやい)網が、風が強くて切れることがあっても、言葉は絶やさないでください。

「武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 我は寄りにしも」                                      武蔵野の草が同じ方向になびくように、どのようにでも、あなたの意のままに、私は従ってきたのに  

「武蔵野の をぐきが雉(きざし) 立ち別れ 去にし夕より 背ろに逢はなふよ」                武蔵野の窪地に住む雉(きじ)のように、立ち別れて行ったあの晩から、私は夫に逢っていないなあ。

「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき」                                                      多摩川で、さらす手作りの布のように、さらさらに、どうしてこの娘が、こんなに愛おしいのだろうか

寛仁四年(1020)、更級日記の筆者は、父の赴任地であった上総国から京に登る途中に通った武蔵国を次のように述べている。「まるで泥のような土地で 紫草が生えていると聞いた野原は、アシやススキばかりが高くて、弓を担いで乗った馬も隠してしまうほどだ」

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susukihara-3.jpgsusukihara-4.jpgいわき市水石山の萱原(かやはら)

鎌倉時代に勅撰された『続古今和歌集』にも、「武蔵野は 月の入るべき 嶺もなし 尾花が末に かかる白雲」と読まれ、山が見えないほど広大な平野には、林が少なく、ススキ(尾花)の萱原が続いていたようだ。

なお武蔵国には、平安時代に官営による4つの勅旨牧(場)が置かれ、毎年朝廷に良馬を納めていた。その後、牧野管理者から武士団が生まれ、武蔵七党と呼ばれた。

一の谷の合戦で、急坂を騎馬で駆け下りながら、源氏方の先陣を争ったのは七党の一つ西党出身の平山季重と熊谷直実、熊谷氏は同じ七党の私市党か丹波党の出身とされるが、明らかでない。いずれにせよ2者にまつわる物語は、騎馬が達者な武蔵七党の面目躍如となっている。一の谷の合戦は、瀬戸内海の水軍を基盤とした平氏に対して、騎馬に長けた関東武士団を味方にした源氏の戦いを象徴的に表している。

写真は、福島県いわき市水石山である。平将門の軍事訓練を継承すると伝えられる相馬野馬追の馬が放牧されている。馬が草を食むために、野草間の優劣がコントロールされて、ススキと他の野草種が共生する、美しい萱(ススキ)原である。武蔵野もこのような萱原に馬が放牧されていたのであろう。