原風景としての萱原

azeturf.jpg萱原をイメージして製作したアゼターフ

ススキを茅・萱(かや)と言い、穂は「尾花」と歌われた。

 武蔵野は一面に萱原が広がっていたことが、古代の更級日記に描かれ、また鎌倉時代の「続古今和歌集」に詠まれている。遺跡の発掘調査によれば、武蔵野において、5世紀後半には100棟程度の大規模集落が出現し、9世紀には多数の大規模集落の出現と分村化というように、高密度の土地利用が認められる。この過程で森林は切り開かれて、広大な萱原が出現した、ものと推定される。

萱原は、人との関わりによって形成された独自の生態系である。萱原は年に1〜2回程度の草刈や野焼きによって維持される。草刈を行わないと森林に遷移する、また草刈をしすぎると、ススキが衰えて芝生(自然のノシバ)や裸地となる。

「武蔵野は 今日はな焼きそ 若草の つまもこれあり 我もこれあり」伊勢物語                  武蔵野は今日は野焼きをしないでください。若草のような妻が隠れているし、私も隠れているのだから。

武蔵野は古代には官営の馬牧場が置かれ、鎌倉時代には騎馬を得意とする武蔵七党の拠点であった。武蔵野の人びとは、萱原に馬を放して飼料としたり、茅葺き屋根の材料としてススキを刈って利用した。

草刈や馬に食まれることによって維持される萱原は、オミナエシ・キキョウ・カワラナデシコなど、他の野草も豊富である。                                                                                              「秋の野に 咲きたる花を 指折り かき数えれば 七種の花」                                                                                                                      「萩の花 尾花葛花 なでしこが花 をみなえし また藤袴 朝顔が花」                                                                                                        (山上臆良 万葉集)

野草の種類が多く、美しい萱原は、万葉集から謡われ、また桃山時代の成立した「琳派」の絵師や、その流れを汲む加山又三など近現代日本画家によって、題材とされてきた。

sakai-2.jpgoae.jpg『夏秋草図屏風」酒井抱一 19世紀

 萱原の美は、文学や絵画に描かれてきたために、日本人の心象に深く刻まれて、日本の原風景の一つとなった。都会育ちの人が、萱原を始めて見て、「なつかしい」という感情に抱かれるのは、そのためである。