■山形県金山町

明治11(1878)年、イギリスの旅行家イザベラバードは、現在の山形県金山町を訪れました。
「今朝新庄を出てから険しい尾根を越えて、非常に美しい風変わりな盆地に入った。
ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林で覆われている」。
ピラミッド形の丘陵は、栗駒山が爆発した時の火砕流が堆積した凝灰岩を河川が侵食して作られました。
杉は江戸時代以来盛んとなった植林で、木材生産は現在も金山町の基幹産業です。
金山町は特定豪雪地帯で、その豊富な水が良質の杉を育てるそうです。
写真は、木ごころ橋から望む金山町周辺の杉山。
イザベラバードは、
「丘陵の山々は杉の林で覆われ、北方へ向かう通行をすべて阻止しているようにも見えるので、益々奇異の感を与えた。
その麓に金山の町がある」。
谷口銀山は全国大名最上義光によって採掘されたと言われ、金山の地名はそこからつけられたようです。
義光は金山城(楯山城)を築き、城下町を整備しました。現在の市街地のクランクはそれを踏襲したものでしょう。
義光死後内紛によって1622年最上氏は改易され金山城は廃城となります。
江戸時代は羽州街道の金山宿として栄えました。
イザベラバードが記述したように、ここから北は険峻な山々が続くために、秋田藩の佐竹氏や弘前藩の津軽氏は、ここに本陣や脇本陣を置いたので、賑わいました。
山形県金山町は、昭和58(1983)年、国交省のHOPE計画を推進する中で、「街並み(景観)づくり100年運動」を策定しました。
HOPEとは、Housing with proper environment
(地域固有の環境にともなう家づくり)。
金山杉と豪雪地帯で培われた伝統工法によって作られる切妻屋根と漆喰の「金山住宅」を残し、あるいは新しく建てて今後も伝えていこう。
伝統的建造物を残し、既存の現代建築は可能な限り金山住宅的にリフォームして、歴史を継承して未来に繋がる街並みにしよう。
町の中心部クランクに位置する庄内銀行は外観を金山住宅的にリフォーム(写真4枚目)、また新庄信用金庫は伝統的な蔵に入居して(写真5枚目)、街並みの重要な空間をになっています。
荘内銀行金山支店
新庄信用金庫金山支店
まちづくりが、継続するためには、工務店など地元企業の参画が重要です。
山形県金山町のまちづくりは、行政のビジョンのもと、東京芸術大学建築の人たちが関わっているが、実施にあたっては地元工務店や大工さんたちが力を発揮しています。
金山川にかかる「きごころ橋」は、設計は片山和俊芸大教授、素材は金山杉で施工は地元の工務店が担ったそうです。
橋の中央に広場があり、町民が七夕を飾っていたが、あまり距離が近いので、写真撮影は遠慮しました。
江戸時代に金山宿は栄えたが、奥羽本線が海岸寄りに開通したために、人の往来は激減しました。
呉服屋や味噌醤油屋などを営んでいた豪商たちは、林業に活路を見い出して、大林業家となったようです。
岸家の屋号は「まるい」。味噌醤油屋を営んでいたが、現在は1000町歩の林業を経営しています。
岸浩一(1940〜2017)は、1971から1998年まで金山町長を務めて、金山住宅を活かしてまちづくりを進めました
山形県金山町の大林業家。
川崎家の屋号はカネカ。
元々は呉服屋を営んでいたが、明治時代以降に植林に力を入れて、現在は1500町歩の林業を経営しています。
植林、製材、住宅設計施工を一環体制で行い、2019年度グッドデザイン賞を受賞。
呉服屋時代の蔵は、カフェにリフォームしています。
交流サロンポスト
設計:林寛治
施工:金山工務店
旧金山郵便局舎をリノベーションしたものです。
2階は子ども図書館になっているが、かっては女性を中心としたまちづくりの拠点だったようです。
金山町街角交流施設
マルコの蔵.広場
設計:林寛治、片山和俊
施工:星川建設
かっての豪商西田家が寄贈した蔵を再構築。
母屋が建っていた場所は広場とし、屋根付き回廊が巡らされています。
マルコとは西田家の家紋、◯に小からきているそうです。
2つの蔵の一つはカフェと土産物売店、もう一つはまちづくりの模型などを展示。
カフェは大学生グループなどで賑わっていました。
2023年7月30日に山形県金山町を訪れて、金山住宅やまちづくりに感動して、さっそくAmazonで関連書籍を買いました。
明治時代にイギリスの旅行家イザベラバードが金山町を訪れて風景を印象深く記述しているが、40年に及ぶまちづくりでは、ランドスケープを重視しています。
開明的な首長、その縁者の建築家と東京芸術大学のネットワーク、先駆的な事業を理解し推進する役場職員、伝統的な技術と現代的間取りを柔軟に折り合わせる地元の大工集団、それらが統合した見事な成果です。
もちろん今後の課題は山積みだと思うが、何度か足を運んで学びたいと思います。
■大高正人先生
□三春町体育館(1978)。
教会のように美しいです。
三春町出身の大高正人先生(1923〜2010)が、故郷で初めて設計した建築です。
1987年三春町歴史民俗資料館の学芸員だった私は、全国規模の企画展「縄文の石と祈り」を担当、それに合わせてこの体育館で開催したシンポジウムには全国から200人を超える研究者などが参加しました。
□三春町歴史民俗資料館
三春町歴史民俗資料館は、起伏のある土地に佇むように建てられています。
設計は大高正人建築設計事務所で、大高先生は三春町出身です。
地形に合わせた建築というランドスケープ的思想は、多摩ニュータウン計画での挫折を踏まえたものです。
当初の計画は尾根の緑を残して、谷の斜面に中層の住宅を点在させるというものだったが、住宅公団の戸数主義のもとに反故にされました(「建築家大高正人の仕事」)。
私は三春町歴史民俗資料館の初代学芸員として、1982年の開館から11年間勤めて、大高先生にはいろいろとご指導いただきました。
□ 国営三春ダム周辺修景(1984〜1995)。
大高正人建築設計事務所。
私は三春町の学芸員として、三春ダム建設に伴い西方館という中世城館跡の発掘をしていました。小規模ながら保存状態が良く、この地域の中世城館のモデル的価値があると専門家たちは評価していたが、ダムサイトに隣接する電波塔や駐車場建設のために、削平される予定でした。
しかし遺跡を見学した大高正人先生が建設省関係者に「保存活用した方が良いです」と短く助言すると、一転保存が決まりました。
その後の整備計画は娘の大高真紀子さんが担当し私も手伝ったが、それはまさにランドスケープで、私が学芸員から家業の植木屋に転職した一つの契機となりました。
□三春交流館まほら(2003)。
大高建築設計事務所。
町中の賑わいを創出するために作られました。
町の中心部が見える休憩室は、高校生のグループや町民で賑わっています。
ホールはサントリーホールを参考にして、本格的なオーケストラの演奏も可能で、町中のおじさんたちのロックグループの演奏には400席が満席になります。
今年は開館20周年を記念して、仲田種苗園がアオダモを納品施工させていただきました。
■三春のまちづくり
昭和58年(1983)、建設省補助事業HOPE計画が始まると同時に三春町は認可されます。
確か2016年に、大高正人先生を偲ぶシンポジウムが三春町交流館まほらで開催されました。
伊藤寛元三春町長が、「三春のまちづくりは私と大高先生がリードしたという人がいるが、それは間違いで、主役は町民だった」とコメントしています。
町の中心部の歩道を広げて、電柱は地下支柱を実現するために、対象区は全戸改築。確かに住民一人一人の覚悟と、それを支える行政や商工会の努力がなければ実現しませんでした。
デザイン的には、切妻建物の長い方を通りに向け
(平入り)、2階は町家の格子戸風で統一しています。
HOPE計画には東大の渡辺定男研究室が参画して、地元の三春大工の流れを組む工務店などが三春住宅研究会を組織して、施工にあたり、現在も若い移住者向け住宅などで切磋琢磨しています。
三春らしさは裏通りにあります。
城下町らしく宅地は短冊形で、表通りに面して店舗兼住宅、奥に庭と土蔵。
表通りの店舗兼住宅は戦後改築されて三春らしさが乏しくなっており、HOPE計画の大町地区全戸改築では2階を格子戸風にしてなんとか地域らしさを出すために苦心しました。
これに対して裏通りは、古い土蔵が残っていたり、丘陵の中腹にある社寺に繋がる古道に歴史的雰囲気を感じます。
三春町は街並み環境整備として、「磐州通り」などの裏通りを整備したが、これも三春町住宅研究会が重要な役割を果たしました。
平成4年(1992)、三春町は「うるおい、緑、景観まちづくり整備計画」を策定し、町中を流れる桜川は自然と触れ合う場としました。
ところが桜川は容量が小さいために、大雨時に氾濫することもあり、福島県が拡幅改修して、平成27年(2015)に完成しました。
町民の要請により、環境に配慮するために、コンクリート製品ではなく、花崗岩の間知石積みが行われました。
竣工後8年経過して当初の硬い感じがやわらいできたが、個人的には町側の右岸に植栽の配慮があればさらに良い空間になったと思います。
三春町は郊外のバイパス沿いにあったスーパーを、町中に誘致しました。
全国トップクラス業績を誇るヨークベニマルです。
町中は土地の流動性が低いために周辺地区よりも高齢者率が高いが、その人たちが車を押して、自力で買い物に来ています。
元々は町中で栄えた金物屋さんなどがあったところで、地道に場所を確保した町民や行政の努力には頭が下がります。