■ 会津の理
本日11月27日の日経新聞。薩長が掲げた錦の御旗に何の根拠もないこと(武田鏡村「薩長史観の正体」)、明治維新直前の江戸市民は会津藩主松平容保に好意的であった(森田健司「明治維新という幻想」)、など最近の研究を紹介している。

「京都は薩長が騒乱。会津の忠誠が頼りだ」
孝明天皇は、会津藩主松平容保に、都を守れとの意味の宸翰を与えた。薩長により朝敵にされた会津の正当性を証明する重要な史料だが、容保はそのご宸翰を竹筒にいれて、首に下げ、生涯公表しなかった。




■ 村々の風格
1868(明治元)年、会津藩は滅亡した。城下は西軍による略奪と灰燼に帰し、復元された鶴ヶ城や西軍の診療所となった御薬園以外は藩政時代を偲べる文化財等は極端に少ない。
一方で郊外の村々も、西軍の略奪は受けたが、伝統的民家で構成される集落、共同体の絆を示す祭りや水利管理、そして集落をつなぐ街道などは、古くは中世に始まり、会津藩政時代に整備されたもので、私はこの村々を見ると、歴史的な風格を感じる。

トランヴェール2017・11

越後街道野沢(西会津町)諏訪神社秋の大祭

喜多方市山都町宮古

西会津町

■ 水利事業
会津の村々には、山奥の水源から山の斜面をめぐらせ水を引く「山腹水路」が、今も使われている。
多くは、江戸時代会津藩の指導の下、新田開発のために、作られたものだ。
昨日11月25日の朝日新聞「みちのものがたり」には、喜多方市元木上堰が特集されている。

朝日新聞2017・11・25

南会津町舘岩村前沢集落

只見町布沢

猪苗代町土津神社

■ 街道
会津中街道(松山通)は、会津藩が元禄8(1895)年に開削した。西街道(下野街道)が、天和3(1683)年の日光大地震によって不通となったためである。
会津若松から栃木県氏家までの31里、中間の大峠は標高1,468mの急峻であるが、石敷きが残り往時の盛んな交通を偲ぶことができる。
会津藩は、群馬県沼田から尾瀬を超える沼田街道、長岡と結ぶ「六十里越え」や「八十里越え」、新潟と結ぶ越後街道などの幹線街道と脇道を整備した。しかし150年前の戊辰戦争では、このすべてを防御しなければならず、防御が薄かった脇道の母成峠(標高972m)を西軍に突破されて、一気に猪苗代、若松と攻め込まれた。