石川町は、東部(阿武隈山系)の変成岩帯、中部の花崗岩帯、西部(阿武隈川流域)の第四紀に降下した火山灰帯の3つに大別される。日本造園学会関東支部学生デザインワークショップ2013のEチーム(リーダーは大石茉由佳、チューターは霜田亮祐)は、Trinity Earth(三位一体の地)と敬意を表した。

(石川町の地質 福島県石川町教育委員会)。

町の西部に位置する阿武隈川流域の地質を下から見てみよう。

花崗閃緑岩(白亜紀 約6600万年前)

仁公儀層(半固体状らしい 新第三紀 約2300年前)

白河層(南会津を噴出源とするデイライト質凝灰岩 「白河石」 新第三紀末 約250万年前)

火山灰 (安達太良山を噴出源とする。第四紀 約250万年前以降) 。

また阿武隈川の浸食によって、高・中・低位段丘が発達しているが、近年の圃場整備で中位と低位段丘は不明瞭になっているところも多い。

高位段丘は農作物の栽培に適した弱酸性の火山灰層が厚く残り、旧石器時代から各時代の集落跡や古墳が濃密に分布し、今も果樹や野菜なのどの農業が盛んである。低段丘は火山灰は流されているが、逆に上流から運ばれて有機質の土壌と水利を利用して、弥生時代以降現在まで水田として利用されてきた。

高位段丘上からの眺望(仲田種苗園の鷹ノ巣農場 私の瞑想の場)

阿武隈川から段丘を見上げる。

阿武隈川と社川が合流する明新橋付近は、河川物流が集積する場所であり、川底が固い花崗岩の岩盤で安定しているので、船着き場として利用されたものと推定される。

江戸時代には、陸路の常陸街道から阿武隈川を利用する河川ルートが開拓されて、明新橋を西に渡った矢吹町明新には豪商円谷家が「明岡河岸」を築いて河川の拠点となった。明岡河岸跡

なお白河層が露頭しているところでは、平安時代末の摩崖仏や鎌倉時代の板碑が見られる。