仲田種苗園が経営する青生野ガーデン倶楽部の住所は、福島県鮫川村大字青生野字世々麦。
元々は国有林で、1960年代に地元有志が払い下げを受け、桑園として利用した。

「養蚕業」wikipedia
高度経済成長によって内需が伸びてくると、1966年の日本蚕糸事業団法施行と各地での養蚕団地の取り組みなどもあり、内需に応じる形で生産が増加し、東京都下(三多摩)などを中心にようやく1970年代に再度のピークを迎えた[17][18]。とはいえ、繭生産量、生糸生産量とも、1935年の半分以下に過ぎず、また1962年(昭和37年)の生糸輸入自由化[19]を経て、このころには一大輸入国に転じていた[16]。その後、一元輸入制度導入、蚕糸業振興資金の設置等が行われるも、1973年の第一次オイルショック以降、価格の暴落・農業人口の減少・化学繊維の普及で衰退が進み、1994年(平成6年)にはWTO協定で再度自由化され、1979年には収繭量1トン以上の大規模養蚕農家だけでも15,497戸あったところ、2016年には全国の養蚕農家数は349戸にまで減少している[17][18]。都下の養蚕業者数も全盛期の30軒[20]から2014年には6軒まで減少した。

1966年の日本蚕糸事業団施工法によって、阿武隈山地の各地に養蚕団地に作られた。
世々麦の養蚕団地もその一つであり、面積は約10㌶。

以下の写真は1970(昭和50)年に撮影された世々麦養蚕団地である。
周辺は牧草地となっている。

1970年撮影の世々麦養蚕団地

しかし国内養蚕業は、1973年の第1次オイルショックや化学繊維の普及で、早期に破綻する。
世々麦養蚕団地も耕作放棄地となり、笹薮に覆われた。

1994(平成6)年、仲田種苗園が購入して鮫川農場とした。創業者である仲田茂は、「採種と社員研修を目的とした」(『創業記』)。笹薮の駆除に苦労して、植栽できるようにする基盤整備に2年を要した。
それまで10か所ほどに分散していた高さ8m内外のシンボルとなるモミジや桜などを植栽した。
敷地は北山と南山に分かれる。植栽は創業者の理念のもとに、樹種ごとに適した環境のところに行った。
例えばモミジは、渓流に自生するので、敷地の谷間に植栽している(生態的植栽、近自然的栽培)。

2003(平成15)年、現社長の仲田茂司が、日本列島植木植物園実行委員会副委員長に参画して、鮫川農場を「青生野ガーデン倶楽部」として登録した。全国のオープンナーセリーをネットワークする(財)日本植木協会のプロジェクトである
地元住民の花見や紅葉狩りの憩いの場となり、2008年にはモミジサミットの見学会場として欧米7か国約90人が訪れた。

国際モミジ協会の見学(モミジサミット 2008年)

2020(令和2)年、開園後20年経過して樹幹が触れ合うようになってきたために、間伐や移植などの再整備を実施した。